脳外科の急性期病院に勤めていたころは、今思えば結構な頻度で患者さんの「死」に立ち会ってきました。
今は回復期リハビリテーション病院に勤めていますが、急性期・回復期を問わず、患者さんの死が近づいてきた時、私たち看護師は何をして、どういうことを考えているのでしょうか。
◆ まず思うのは、「親の死に目に合わせたい」ということ。
突然の異変で死に直面することもあります。また、気が付いたときにはもう手遅れの状態ということもあります。
かたや、今すぐではないが、もうそろそろ始まったなと分かる時があります。
いずれにしても、家族さんに連絡をして、病院に向かっていただきます。
それは、「できるだけ死の前に家族に会わせたい」という気持ちがあるからです。
家族と離れて入院生活をしてきました。
だからこそ、まだ生きているうちに、たとえ会話ができなくても、目を開けなくても、生きているうちに家族に会っていただきたいと考えるからです。
◆ 親の死に目に会わないのは、親不孝ですか
昔から「親の死に目に会わないのは、親不孝だ」という考え方があります。
これは「親より先に死ぬことが、親不孝だ」という意味で、「親が死ぬ瞬間に立ち会わないのが親不孝だ」という意味ではありません。
「子どもよ、親よりも長生きしておくれ」
という解釈もできると思います。
本来は、子どもを思う親の気持ちを表しているというハートフルな言葉です。
でも多くの人は、この言葉を勘違いして覚えています。
この考えは根強く、何が何でも親が死んでしまう少し前でもいいので、目が開かなくてもいいので、せめて心臓が止まる前に親に会いたいという方をたくさん見てきました。
しかしながら、この「親の死に目に会わないのは、親不孝」という言葉に関係なく、親の心臓が止まる前に病院に駆け付けたいというお考えの方は多いように感じています。
その気持ちは分かりますし、とても悲しくつらいことに変わりありません。
この言葉を思うと、私は職業柄、小児病棟の親子を思ってしまうのです。
特に小児がんなど大変厳しい状況にある子どもとその親のことを。
また、筋ジストロフィーやALSといった難病のこどもとその親を。
多くの人にとっては親のほうが先に死ぬということになるでしょう。
しかし子どもが先に亡くなるということもある。
これを考えると、一概に親不孝の一言で表すことはできないと、そう思うのです。
◆ 親は死んでも子どもに語りかける
多くの患者さんの死に立ち会ってきた経験から、お亡くなりになった患者さんは穏やかなお顔をしていらっしゃいます。
まるで眠っているかのように。声を掛ければもしかしたら目を開けるんじゃないかと思うほどの、自然な眠りのような方もいます。
死に目に間に合った方も、間に合わなかった方も、亡くなった親の手を握り、涙を流されてたくさん話しかけられます。
親と子どもと会話をされるのです。
亡くなってもお互いに通じ合っていると思います。そんな気がしてなりません。
お亡くなりになった患者さんに付いている医療チューブやカテーテル、点滴などを丁寧にはずし、お身体をきれいに洗い、新しい服に着替えて、ベッドを整えてから、ご家族に対面していただきます。
ご家族が希望すれば、こうした処置に立ち会うこともできます。
そのあと、葬儀会社のお迎えが来るまで、病院で家族との時間を過ごすことになります。
ご家族さんは声を出して亡くなった患者さんに話しかけます。
別に声に出して話さなくても、心のなかではたくさんの会話をされているのでしょう。
看護師は、できるだけ静かに家族との時間を過ごしていただけるように配慮します。
◆ 現代は「なかなか死ねない」時代
医学が発達した現在は、救急搬送されても、長く入院生活を送っても、なかなか自然死はできにくくなっています。
昔ならもう亡くなってしまっているだろうという状況でも、あらゆる医療処置等で、延命をすることになるからです。
臨床の現場にいると、もうとっくに身体は持たないはずなのに、ギリギリのところで生きるを可能にしているのを見ます。
そう、現在は昔に比べると、なかなか死ねないのです。
最後の最後の一瞬まで、医療は患者を生かし続けるのです。
これは悪いとか良いとかの話ではなくて、現実のお話なのです。
看護師は患者さんの「死」に立ち会う職業です。
たくさんの死と関わってきても、心の中では泣いています。慣れません。
人それぞれの生きざまを、24時間みてきましたから。
看護師も、それぞれが思うこともあるでしょう。
介護士も同じだと思います。
生死について本当にいろいろと考えます。だからこそ、患者さんと家族に寄り添っていきたいと思います。
それではでは最後まで読んでくださってありがとうございました。